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セントジョンザバプテスト郡 (ルイジアナ州) : ウィキペディア日本語版
セントジョンザバプテスト郡 (ルイジアナ州)[せんとじょんざばぷてすとぐん]

セントジョンザバプテスト郡()は、アメリカ合衆国ルイジアナ州の南部に位置するである。2010年国勢調査での人口は45,924人であり、2000年の43,044人から6.7%増加した〔Quickfacts.census.gov - St. John the Baptist County - accessed 2011-12-06.〕。郡庁所在地国勢調査指定地域エドガード(人口2,441人〔American FactFinder. U.S. Census Bureau. - Edgard - accessed 2011-12-06.〕)であり、同郡で人口最大の町はラプラス(人口29,872人〔Quickfacts.census.gov - LaPlace - accessed 2011-12-06.〕)である。
セントジョンザバプテスト郡はオーリンズ準州(後のルイジアナ州)で当初定められた19郡の1つである。ニューオーリンズメテリーケナー大都市圏に属し、またニューオーリンズ・メテリー・ボガルーサ広域都市圏を構成している。
18世紀と19世紀は、1720年代に大挙して移民してきたドイツ人開拓者が開いたミシシッピ川沿い、ジャーマン・コーストの一部と考えられていた。1811年1月8日、ジャーマン・コースト暴動と呼ばれるアメリカ史の中でも最大級の奴隷反乱が始まったのがここだった。短期間ではあるが、川沿いのプランテーションから200人以上の奴隷が集まり、セントチャールズ郡を通ってニューオーリンズまで行進した。
郡内には全国的に認められている19世紀プランテーションの建築物が3つある。すなわち、エバーグリーン・プランテーション、ホィットニー・プランテーション歴史地区、およびサンフランシスコ・プランテーション・ハウスである。
== 歴史 ==
セントジョンザバプテスト郡はルイジアナで2番目の恒久的開拓地であり、ジャーマン・コーストの一部と考えられていた。その開拓地は1720年代初期にドイツ人開拓者集団によって設立された。多くの家族が、現在ルーシー、ゲリービル、リザーブと呼ばれるミシシッピ川周辺の地域に町を設立した。この地域は七年戦争後の1768年までフランスの統治下にあり、その後はスペインに移された。
この頃、多くのフランス人子孫であるアカディア人が、現在のノヴァスコシアからイギリスに追放されて南ルイジアナに到着し始めていた。イギリスは七年戦争に勝利し、カナダのフランス領を占領していた。現在のウォレスに最初のアカディア人集落が設立された。ドイツとフランスの文化が相伴って栄えるようになったが、フランス語が支配的な言語になった。彼らはクレオールと呼ばれる文化を発展させた。
地域の開拓者達は、その時代に地域を支配していたスペインあるいはフランスの政府から土地の特許を取得した。これら特許には概して川に面した狭い土地が含まれ、ニューオーリンズや世界の市場に商品を行き来させるために都合が良かった。その他の土地は川から離れ湿地帯まで奥深く入っていた。これがフランスの決めた土地分割のやり方だった。
物資の輸送の大半はボートを使いバイユーや湖を通って行われたが、19世紀に入るとミシシッピ川もよく使われた。セントジョンザバプテスト郡となった領域は標高9フィート (3 m) の肥沃な土地があり、農業には優れた場所であることが分かった。18世紀後半、農園主たちは労働集約型のサトウキビ栽培と加工に力を入れるようになり、奴隷の労働力に対する需要が増した。砂糖の生産は農園主とニューオーリンズにとって繁栄を意味していた。
砂糖で富を得た農園主たちは華美な家屋や別荘を建設した。郡内に残っている3つの家屋が国家的建築物として、また歴史的意義あるものとして認知されている。ミシシッピ川西岸には、ホィットニー・プランテーション歴史地区とされる家屋と別荘の大きな集合と、アメリカ合衆国国定歴史建造物に指定されたエバーグリーン・プランテーションがある。東岸にはやはり国定歴史建造物に指定されたサンフランシスコ・プランテーション・ハウスがある。サンフランシスコ・プランテーション・ハウスとエバーグリーン・プランテーションは観光客に公開されている。ホィットニー・プランテーションは改修が予定されている。ホィットニー・プランテーションとエバーグリーン・プランテーションはどちらも、ルイジアナ・アフリカ系アメリカ人歴史の道にある26か所に含まれている。
1811年、ジャーマン・コースト暴動が郡内で始まった。アメリカ史の中でも最大級の奴隷反乱だったが、短期間で終息した。奴隷達は2人の白人を殺したが、民兵隊との戦いや、その後の素早い裁判によって96人の奴隷が命を失った。奴隷達は5つのプランテーションを攻撃し、3軒の家屋を燃やした。ハイチから来た混血の奴隷チャールズ・デスロンデスが暴動の首謀者の一人だった。デスロンデスとその追随者達はフランス革命ハイチ革命の理想とその成果に影響を受けていた。途中にあるプランテーションから200人以上の奴隷が集まり、セントチャールズ郡を通ってニューオーリンズまで行進したが、その後に多くの抵抗に遭った。彼らは計画通り武器を入手できず、武装の整った民兵隊に敗北した。これらの衝突と、裁判後の処刑によりデスロンデスと95人の奴隷が殺された。南北戦争や奴隷解放の数十年も前のことであり、その行動は自由に対する深い願望を表現していた〔Adam Rothman, ''Slave Country: American Expansion and the Origins of the Deep South'', pp. 106-117, Cambridge, MA: Harvard University Press, 2007 paperback〕。
開拓者の家族が増加するに連れて、子供達を教育したいという需要も大きくなった。南北戦争以前、通常の農園主は北部のカレッジを卒業した家庭教師を雇い、その教師達は家族とともに通常2年間といった長期に滞在することが多かった。家庭教師は農園主の子供達全てを教育することになったが、農園主の家族は近所の子供達も授業を受けられるように手配することがあった。南北戦争後の1869年、フランス語の授業を望む家族達が、その文化を継続させるために私設の学校を作った。これはレコンストラクション時代の州議会で初めて公立学校を作ったときでもあった。最初の高等学校は1909年にエドガードとリザーブに設立された。子供達は馬に曳かせたバスや列車で通学した。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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